日々の暮らしの中に想うことをあれこれと書いています
小学校で英語教育をスタートさせる・・ということが言われて以来、
「英語教育の前に、子ども達に正しい日本語教育を」という意見が、
新聞紙面などに良く取り上げられている。
今日の朝刊でも、すれ違った小学生や中学生の、
あまりの言葉のひどさに、
英語教育の前に、きれいな日本語の教育をすべきでは?
との投稿が載っていた。
耳を疑うような言葉遣い、暴力的ともいえるような物言い、
大人には意味の通じない新語の氾濫・・・
日常的に、そんな言葉に出会い続ける。
私自身は、英語教育と日本語教育とは別だと思うので、
英語教育の前に日本語教育・・・ということではないと思っている。
それよりも、
こんなに日本語がすさんでしまったのは、
学校の日本語教育のせいではなくて、
日本人そのものの、心のありようが、
どこか違ってしまったのでは?と、とても切実に感じているのだ。
子ども達があたりまえの日本語を身に付けるのは、
誰よりも先に、親から受けた沢山の言葉からだ。
その次は、社会(隣近所・友達・テレビなど)から。
そして、最後に、学校の国語教育から、だと感じている。
親や社会が、既に、すさんだ日本語を使っているのだから、
どんなに、学校で「正しく美しい日本語教育」をしても、
どれほどの効果があるだろう?
そして、現代の言葉がすさんでしまっているのは、
多くの日本人の、あまりの「語彙の少なさ」から来ているのではないだろうか?
「むかつく」で、気分の悪い表現をすべて済ませる。
「うざい」で、相手の不愉快な様子をすべて済ませる。
もっともっと、言葉は沢山ある。
子ども達に、日本語がこんなに表現力豊かな言葉であることを感じて欲しい。
それには、どうしたら・・・?
英語教育の対比として、日本語教育に思い巡らせるのではなくて、
当たり前のことをやってこれなかった、大人たち一人一人の責任だということ、
今改めて、自覚しなくてはいけないのでは・・・と、
新聞を読みながら、思ったりしたのです。
日本語の言葉・・・ とても良い言葉ですよね。