日々の暮らしの中に想うことをあれこれと書いています
「長い間お世話になりました・・・」
そ、そんなことは言わないで下さい・・と思いつつ、
次の時間の生徒さんがもう来られていたので、
深々と頭を下げて帰られる生徒さんを、
ドアから見送っただけで終わってしまった。
もっとちゃんとご挨拶したかったのに。
2001年4月に教室に来られ、途中少しお休みがあったけれど、
もう6年も通って下さった生徒さん。
70代でバリバリにWordを使われて、
うっとりするような素敵な絵をWordで描いて持ってきてくださる。
スラッとスタイルがよくて、とてもお洒落で、センスがよくて。
思い立てば、どこへでもヒョイっと出かる行動力。
憧れてしまうほど素敵な人生の先輩である生徒さん。
その方が、今日で最後の教室になってしまった。
ご主人の体調がとても悪くなり、入院・手術をされて、
今後はつきっきりの介護を余儀なくされる状態と言われる。
とてもパソコンで遊んでいられる状況ではなくなって・・・
少し疲れの見えるお顔で、
申し訳ないけれど、今日でおしまいに・・・と静かに仰られた。
次の授業が終わったあとも、問い合わせの電話応対などでバタバタして、
やっと自宅に戻り、すぐに夕食の支度をする。
包丁を持ちながら、ふとその生徒さんのことを考える。
生徒さんのお宅はご近所だし、お会いできることもあると思うけれど、
もう教室には来られない・・と思うと、
なんだかとても淋しくなって、ため息が出る。
自分は11月で教室を閉じるくせに、それを棚に上げて・・・
窓の外では稲光り。そしてドロドロと雷の音。
一日も早く、
ご主人の体調がよくなり、生徒さんの心休まる日が訪れますように・・・
脳の中で、二つのことを同時に考え、
別々の指令を出し、それらを適切に処理していく。
このデュアルタスクの日常編があります。
世の中の主婦たちは、日々、普通にこれを行っているのです。
そう、それは「料理」を作ること!
★本日のメニュー★
「肉じゃが」「ワカメの味噌汁」「胡麻和え」「ごぼうサラダ」
ジャガイモの皮をむいて切って、たまねぎ・にんじんを切って、
白滝を洗って切って、肉じゃがを煮込みながら、灰汁をとりつつ、
味噌汁の出汁を用意して、野菜を洗って、
ワカメを水で戻して、洗って切って、
ほうれん草を茹でて、ごぼうの千切り、胡麻を摺って、
ごぼうをさっと茹でて、きゅうりを千切りにして、
肉じゃがの出来具合を見て、味噌汁に味噌を入れ味見をして、
すり胡麻に砂糖や醤油を入れてほうれん草を和えて、
味噌汁に豆腐を加え、シーチキンの缶詰を開けて、
ごぼうときゅうりとシーチキンををマヨネーズで和えて、
途中、調理器具を洗いながら、お皿やお椀の用意をして、
食卓の上を片付け、箸を並べ、小皿を置き、お料理を並べる。
「ごはんですよーーー」とみんなを呼ぶ。
約1時間ほどの間、脳はずっと、
4つのメニューを完成させるため、デュアルタスク以上の働き!
ときどき夫は、私の夜の授業のときに、夕食を作ってくれていた。
それが、とにかく時間のかかること。
私なら30分もあれば出来る料理も、2時間近くかかる。
それでも、最後の仕上げは私がやることになる。
夫は言います。
「同時にふたつ以上の料理を作れない。
ひとつ作って出来上がってから、別の料理を作る。
だから、時間がかかって、とてもあなたみたいには作れない」
夜の授業が無くなった最近は、もう、滅多に作ってくれません。
この話、他でも耳にしたことがある。
女性は、同時に二つのことが出来るけれど、
男性は、同時に二つのことは出来難い。
一般論なので、もちろんみんながそうではないけれど、
多く、これに当たっているみたい。
女性は早くから料理を作り続けて、デュアルタスクを磨いてきたからか、
それとも、天性で、女性は同時に二つのことができるのか。
料理を作ることは脳を刺激し、脳の老化を防ぐ、、と言われている。
90歳を過ぎてもしっかり元気なおばあちゃんは、
きっと、コツコツと料理を作り続けてきたに違いない・・・って、
あらためて思ったりした。
面倒がらずに、料理を作ろう!
デュアルタスク、磨き続けなくちゃね。
夫さんも頑張って欲しい・・・なあ~ ムリ・・・?
デュアルタスクって分かりますか?
新時代パソコンに搭載されているデュアルコアCPUのことではありません。
またコンピュータがお仕事(タスク)を
同時に2つ行うということでもありません。
脳の働きを意味する言葉「デュアルタスク」
昨日、NHKの衛星放送を見ていたら、飛び込んできた言葉でした。
腹話術士のいっこく堂が、なぜ、いくつもの人形を操りながら、
それぞれが別の人格のように演じることができるのか?
それが、彼の脳の中の「デュアルタスク」が人一倍有能であるから、
ということだったのです。
ひとつの脳で、同時に別々のことを考え、指令することができる。
いっこく堂の彼は、きっと、脳がボケることは無いだろうなあ。
そこでデュアルタスク度のテストです。テレビでやっていました。
口で「あいうえお、かきくけこ・・・」と五十音を発音しながら、
鉛筆を持った手は、一つ先の文字を書く。
つまり、文字は、「いうえおか、きくけこさ・・・」と書いていく。
スムースに書けますか?
初めてだというのに、いっこく堂の彼のスピードはすごかったです。
もひとつ。
声を上げながら、それに合わせて、
右手で「グー チョキ パー」を繰り返します。
そのとき、左手は、右手で出したジャンケンに勝つように出します。
右手「グー」だったら、左手は「パー」です。
これを、声を上げながら、リズミカルに、止まることなく続けます。
夕べは、一人で、「グー チョキ パー グー チョキ・・・」と声を出していたら、
そばに座っていたさくらが、すごくヘンな顔をして、
私を見上げていました。
それにもめげず、がんばって練習したら、なんとか上手になりました。
私の脳のデュアルタスク、ちょっと発達したかな?
「先に犯人を知っておいたほうが安心して読める」って、
ミステリー本の最後を先に読んでから、
本格的に読み始める友達が何人かいます。
じっくりゆっくり読めるのかな、と、
そんな友達の読書習慣を微笑ましく思いながらも、
私はそれは絶対にダメで、
最後のページはホッチキスで止めておきたいくらい。
(何かの間違いでページが開いて、
犯人の名前が目に飛び込んできたらショックだもの)
そんなだから、映画でもなんでも、
予備知識が入るのを極端に避けたいのです。
頭を真っ白にしておいて、映画やドラマや小説に没入したい。
なのになのに・・・話題の映画ともなると、
目をつぶっていようとしても、
耳を塞いでいようとしても、
あっちからこっちから、情報が飛び込んでくるのです。
さっきも、車の中で流れていたFMラジオ。
今日封切りのパイレーツ・オブ・カリビアンの話題でもちきり。
危ないなあ~と思うやいなや、既に試写を見たという女性パーソナリティが、
「あまり内容は言えないのですが、最後のクライマックスは△○■※・・・」
って、あなた!言ってるじゃないですかーーー
慌てて、ラジオをOFFにしたけど、聞いてしまった!
予告編も、新聞などの映画評も、どうしても目に付いて、
色々なシーンが想像できてしまうので、
ほんとうに困るのです。
だから、一日も早く観てしまわなくちゃ。
6月初めには、映画館に行けそうだから、
それまで、しっかり目と耳を塞いでおこう。
世の中の先に観た方たちが、
私の訪ねるブログのエントリーなどで、
ヒョイっと内容を暴露したりしてないことを、
ただひたすら願うのでありました。
本格的に、庭で花を作り始めたのが2年前。
その成果が、この春から現れて、
それまでは、ラベンダーとハーブくらいしかなかった庭に、
今、可憐な花たちが、次々と咲いてくれている。
で、デジカメの登場となる。
きれいな瞬間を閉じ込めたくて、
ファインダーを覗くことが激増したというわけ。
先日、カメラの腕前は間違いの無い、とある男性が、
「花って、どうやってレンズを向けていいか分からないんだよね」
と言っているのを耳にした。
そのとき、パッとひらめいた私。
その昔(大昔です)、モデルの女性を撮ることがあって、
その女性にレンズを向けるのだけど、
(フィルムカメラで105mmのレンズだったっけ)
ファインダーの中には、ごく平凡な画像しか捕らえられない。
どこをどう撮れば、彼女の魅力を感じさせる写真になるのか、
ぜんぜん分からなかった。
そう。そうなのだ。
日ごろ、女性のことを「美しい」とか「素敵」だとか思って、
眺めることなんてまるで無いのだもの。
急に、レンズを向けたって、自分自身で感動できるわけない。
でも、庭に咲く小さな花たちのことは、
「ああ、きれい!」「わ~ かわいい!」
「うん、こっちから見たほうがいい」「ああ、こっちも素敵!」
自分で勝手に感動してる。
だから、写真を撮れる。レンズを向けられる。
日ごろ、女性を「美しい」と思っていなかった私は(若い頃だったから)、
女性の写真が撮れなかったし、
お花をいつも見ていない人には、お花の写真を撮れない、という道理。
これって、ひとつの真理かもしれないな~
人の心は、いつも見ているものにこそ、繊細に働くのだ、、って。
庭のお花を眺めながら、そんなことを、考えたりしていました。
「DUCKは、いつでもずっと同じようにこのまま、
頼っていられると思っていましたから・・・ショックで・・・」
生徒さんからのそんな言葉が続いて、
大きな責任をあらためて感じている。
そう出来たら良かった、そうしたかった・・・
今日もまた「泣いてしまいました」と言われ、
少し悲痛な顔で見つめられる。
ただ「すみません・・・」と謝るしか。
小さな教室ではあったけれど、
小さいからこそ、深まる繋がりがあったのだと思う。
教室を閉じても、
実際には、そんな方たちへのフォローや、
形作られた小さな輪を繋ぎ続けること。
まだまだ、私に残される仕事はたくさんありそう。
私なりの、新しいシステムを、もう一度作り直して、
残された、ちょっと頼りないエネルギーを、
これからもう少し、燃やし続ける日々が続きそう。
迷いを振り切り、心の準備は少し前からしていたけれど、
ご挨拶するときは、みなさんに一斉に・・・と思い、
ずっと、胸の中に閉じ込めて、外には出さずにいた。
その日から半年前となった5月。
もう、公表しなくてはならない時期。
重い腰を上げて、生徒の皆さんに、お手紙を投函した。
既に、教室のメールボックスには、
手紙を読んだ数人の生徒さんから、メールが届いている。
「残念です」「淋しいです」
分かっていたことだけど、
あらためて、言葉をかけていただくと、切なくて胸が痛い。
そしてまた、感謝の気持ちでいっぱいになる。
いくつもの要素がからみあい、悶々とした月日のあと、
出した結論は、これしかなかった。
今年11月いっぱいで、教室を閉じること・・・
私の考えって、人と違うのかな?
赤ちゃんポストに3歳の幼児が入っていた、
という報道のことです。
新生児や1歳未満の赤ちゃんを想定していた。
3歳の幼児は想定外。
病院も、世の中も、
3歳の幼児をポストに入れることは、
保護者の養育義務を放棄したことだから、
犯罪に繋がる。
そういう部分で、3歳の幼児が入れられていたことに、
大きな非難が集中している、、、けれど。
私は、新生児だって、ポストに入れたら、子捨て。
3歳の幼児だって、ポストに入れたら、子捨て。
違いが、分からない。
3歳の子どもは、意識の中に「捨てられた」ことを感じるから、
その心中を思えば、あまりにひどい、と言う。
大きな傷を受ける、という。
確かに、それはほんとうに可哀相、残酷なこと、と思う。
では、3歳はダメだけど、新生児だったら、良いというの?
ポストに入れられたら、その時点で、
お母さんに捨てられたのだもの。
まだ何も分からない赤ちゃんにとって、
それは残酷で、あまりに胸の痛む行為。
その赤ちゃんが、やがて、自分のルーツを知ったときは?
やはり、大きな傷を受けるに違いない。
新生児でも、3歳児でも、
捨てることの出来るポストがあることが、
私には、納得できない。
きれいごとで、ポストをふんわりくるんでも、
そこに行われるのは、子捨て以外の何物でもないから。
捨てさせないで欲しい。
捨てなくて良い「手」を、作って欲しい。
捨てるしかない手を、温かく包んで欲しい。
捨てるしかない心を、やさしく導いてほしい。
それは、病院だけがやることではなく、
国が、自治が、世間が、隣の人が・・・みんなで・・・
見守り、導かなくてはいけないことなのだと思います。
17時30分の開演時間に、まだ1時間半も前だけど、
すでに神奈川県民ホールの前は、
こぼれそうな笑顔の人たちがたくさん集まってきていた。
それぞれに、石段や植込みのブロックなどにゆったりと腰掛けて、
やわらかい午後の陽ざしを浴びながら、
おしゃべりをしたり、缶入りの飲み物を飲んだりして、
開場の時間までを過ごしている。
私もこの時間が好き。
ワクワクする気持ちを抑えながら、
「今日のオープニングは何かな?」などと思いめぐらす。
自作の看板を両手で、胸の前に広げている男性や女性がいた。
その看板には「チケットありませんか?」の文字が。
そう、分かる。
私だって、こうしてチケットが手に入らなかったら、
ほんとうはそこまでしたいくらいの気持ちだったから。
県民ホールの近所では、「チケットあるよ~」のダミ声は聞こえなかった。
関内駅の近所にはいたのだろうか?
最近は、ダフ屋行為は取締りが厳しいというので、
この近辺に、ダフ屋は集まらなかったのか、
それとも、最近はダフ屋の仕事はほとんどインターネットになったのか?
山下公園の新緑と、海を抜ける心地よい風が、
とびきり爽やかな県民ホール前。
開場時間は瞬く間にやってきて、高まる胸で、チケットを手に会場へ入る。
デビュー30周年の記念でもある今回のツアー。
ヘビーなファンが多いから、ファンもみな、アーチストと一緒に年を重ねている。
だから、会場を見回すと、年齢層がいつの間にか随分高くなっていた。
(もちろん、私はその中でも、ずっと年上だけど・・・)
ざわざわとしていた客席の、照明が落ちて暗くなると、
もうすでに、沸点状態のオーディエンスたち。
あちこちで、「ショーゴーーー」と野太い声や黄色い声があがる。
ドキドキのこの瞬間。
会場にいる人々の心がひとつになって、
一人のアーチストの、今宵最初の「声」を、ひたすら待ち望む。
大好きな人のコンサート、何ものにも変えられない時間です。

最高の夜でした。
素晴らしいライブをプレゼントしてくれた某所の某さんに、
ひたすら感謝いたします...
ほんとうにありがとう。
こんなタナボタ、生きてるうちに、落ちてくることあるんだなあ~
参加することができて、ほんとうに良かった!
いろいろな生徒さんがいる・・・のは当然のことです。
が、
最近、私の教室は、人生相談教室になってきてる?
IEの使い方を、勉強する授業ならわかる、ケド。
「転職情報のホームページ、どこが一番いいでしょう?
いろいろね、転職を考えているものですから」
そんなん、分かるわけない・・・
私、転職したことないもの。
「きれいな街」に、人一倍の拘りがあります。
藤沢は、いつの間にか、
居酒屋とパチンコ屋の溢れる街になってしまってて、
美しさから、どんどんかけ離れて、ため息を隠せない。
それでも、一時のような落書きが目立たなくなって良かった。
これからも、街をあげて、落書きのできない体質作り、
しっかりがんばってください。
ニュースでは、
大阪のアメリカ村(どんな村なのか知らないのだけれど)で
夜中の数時間で、100箇所もの落書きをされたとか。
落書きをしている現場が防犯カメラでとらえられ、
テレビの画面にも写っていたけれど、
ほんとうに、なんということをする人たちなのだろう。
自分のやっていることが、どれほど馬鹿げたことなのか、
何にも分かってない。
というより、分かっているからやっているのか・・・?
なんという哀しい人たちなのだろう。
もう、こんな愚かなことは止めて、
自分たちの住む街を、きれいにしよう、ね。
教室で一番年上の生徒さん、
このエッセイでも、何度か話題として使わせていただいた、
人生の大先輩の女性です。
久しぶりに授業に顔を見せていただいた今日のこと。
覚えたいけれどすぐに忘れてしまうから、と、
沢山の名称を、ひとつひとつ私に尋ねながら、
それらを紙にメモされていた。
お隣の席の生徒さん、それを見て感心して言われた。
「ほんとうにお偉い。
私なんて、忘れたら忘れたでいい、と
はなから覚える気がないんですから」
私も賛同「そうですよね。私も、
名前なんてすぐに忘れちゃうの分かってるけれど、
メモしてまで覚えようとしていないです」
すると、その華奢な身体の大先輩は、ニコニコしながら言われました。
「あきらめない!
私の大事な言葉は、『あきらめない!』
だから、何でもかんでも、あきらめない!」
わ~ 負けた!
ほんとうに、まさにその生徒さんの生き方は、
『あきらめない』の一語に尽きる気がして、
思わず、隣の生徒さんと一緒に唸ってしまったのでした。
人生、簡単にあきらめていたら、
何ひとつ、自分のものになりません。
『あきらめない!』
見習わなくちゃ!
最後は静かな雨なんて、
なんと、うまくまとめてくれるのでしょう。
ずっと、初夏のような晴天続きだったあと、
GWの熱気を、ひんやりと冷ますように・・・
痛ましい事故もあったけれど、
ちょっと疲れて、帰省から帰宅する家族連れのニュースは、
いつもの連休風景そのもの。
また明日からは、街の中がいつものように動き出すのです。
五月病、うちの新社会人は大丈夫かな?
私は、一応連休があって(いつも連休ばかり?)
家事(主に衣服の洗濯・入れ替え作業)と、
次々に咲く花たちの庭仕事に追われていたけれど、
長女が来てくれて、さくらとみんなで海に行けたし、
久しぶりの友人にも会えてお喋りできたし、
ちょっと買い物もしたし、
外食はできなかったけれど、美味しいものも食べられたし。
大きな花丸の付く連休でした。
あ~ 映画のビデオを1本ぐらい観たかったな~
で・・・ 実は・・・ 私は明日もお休みで・・・す。
ゴールデンウィークだもの。
一日ぐらい、食事の支度、サボりたい・・・
夫にそれとなく、「今夜は外食にしない?」と言ったら、
「連休だから、どこにいったって混んでて大変だ!!」の一言で終わり。
それで私は、そそくさと、
駅まで、美味しいお刺身など買出しに行きました。
今夜も、キッチンの後片付けをしながら、
連休の間に一回くらい外食したいなあ~ でも、無理・・・
とひとりごと。
で、ふっと思い出しました。
そういえば、最近、「外食」が「お外ごはん」に変わってきた。
「外食」が「お外ごはん」で、家で食べるのが「おうちごはん」
う~ん、なんという幼児語だろうか。
日本って、どうしてこうも、幼児的言語が流行るのだろう。
若い人たちならいざしらず、
40代から50代くらいの中年女性のブログでも、
この「お外ごはん」「おうちごはん」の単語が使われていた。
大人の言葉を離れて、幼児語に引かれるのはなぜ?
テレビや雑誌などでも、「お外ごはん」「おうちごはん」の
特集が目に付くこのごろ・・・
ね、外食は「外食」がいいと思う。
大人は大人の言葉を使いましょう。
どうして今更?
もう、とっくに、昔から、
ちゃんと実態を把握していたのではなかったの?
この春の選抜高校野球のあとで、
初めて状況を知った・・・なんて、
まさか、そんな話を誰も信じられないと思うけれど。
ダメだというなら、もっと前から、
もっと完璧に、
「絶対優遇しない」と強固な壁を作っておくべきだったのに、
ガードが甘ければ、こんな結果になるのは目に見えている。
お金の余裕のある学校は、
少しでも良い選手が欲しいから、
優遇するのは当然の結果だと思うし、
それに乗った青年たちに、何の罪があるだろう?
見て見ぬふりをしていたか、
節穴同然の目を持っていたか、
考え方が前時代過ぎたのか・・・
どちらにしても、責任を取るのは、自分自身だと思います。
高野連のおえらい方へ
今年はいつまでも寒かった・・・
ので、衣類の入れ替え作業を、
まったく手をつけていなかった!
家族4人、まだ仕舞っていないそれぞれの冬物が山盛り。
洗濯機とはいえ、手洗いコースで何回も。
でも、ハンガーが足りなくなって、続きは明日。
多分明後日まで、かかりそう。
冬物を衣装ケースに仕舞って、
夏物を出して、引き出しや洋服ダンスに整頓。
ついでに、もう絶対に着ない!というものは、
次女が時々やっているフリーマーケット行きや、
資源ごみの日行きへ。
連休は、これらの作業で終わりそう。
衣類の入れ替えをしていると、いつも思う。
入れ替えをしなくていい方法はないものかなあ、って。
洗濯はともかく、
いつでも、ホイっと、夏物が出てきて、
いつでも、ホイっと、冬物と取り替えられる。
う~ん・・・
ときどき、テレビのワイドニュースなどで聞くこと。
最近の若い人は、入れ替えなんてしない、って。
洋服ダンスには、冬のセーターもコートも、
夏のTシャツも、タンクトップも、みな同居している・・・
ということだけれど、
それは、やっぱり、私には無理。
かくして、春秋のこの作業に、卒業は無いのでした。